感情が揺れる日は、何かがずれているのではなく戻っている

感情が揺れる日は、うまく生きられていない気がするとき

感情が大きく揺れる日があります。
理由がはっきりしているわけでもないのに、
些細な言葉に引っかかったり、
いつもなら流せることが、なぜか胸に残ったり。

イライラ、不安、悲しさ。
どれも望んでいないのに、
気づけば内側を占領しているような感覚。

そんな日は、
「自分は何か間違っているのではないか」
「心が弱くなっているのではないか」
そう感じてしまう人もいるかもしれません。

落ち着いていたはずなのに。
整ってきたと思っていたのに。
どうしてまた、こんな気分になるのだろう、と。

感情が揺れるたびに、
自分の状態を評価してしまうこともあります。
良い、悪い。
進んでいる、戻っている。

けれど、その揺れは、
本当に「後退」なのでしょうか。

もし今、
理由のわからない感情に包まれているとしたら。
それは、あなたの努力不足や、
心の未熟さの証拠ではないのかもしれません。

むしろ、
これまで気づかれなかった感覚が、
そっと表に出てきているだけ、
という可能性もあります。

感情が動くことそのものを、
問題として扱わなくてもいい日が、
あってもいいのではないでしょうか。


整っていないのではなく、動き始めているだけかもしれない

一般的には、
感情が安定している状態が「良い状態」とされることが多いようです。
波立たないこと。
揺れないこと。
いつも同じ温度でいられること。

そうした状態は、
社会の中で生活するうえでは、
確かに「扱いやすい状態」なのかもしれません。
周囲に迷惑をかけず、
自分自身も消耗しにくい。

だからこそ、
イライラや不安、悲しさが顔を出すと、
それはどこか
「好ましくないもの」
として見られがちです。

早く整えたほうがいい。
早く元に戻したほうがいい。
この状態は、
長く続かせてはいけない。

そんな無言の圧が、
自分の内側にも、
外側にも、
漂っているように感じる人もいるかもしれません。

けれど、
少しだけ視点をずらしてみると、
別の見え方が立ち上がってくることもあります。

レイキの視点では、
感情の揺れが起きたとき、
それを即座に「不調」や「乱れ」とは捉えません。

エネルギーは、
常に同じ形で流れ続けているわけではなく、
必要に応じて、
滞ったり、動き出したり、
向きを変えたりします。

そしてその動きは、
必ずしも静かで穏やかな形だけで
現れるとは限らないようです。

たとえば、
長く止まっていた流れが、
ふと動き出すとき。
水底に沈んでいたものが舞い上がり、
一時的に濁ることがあります。

その濁りは、
水が悪くなったからではなく、
動きが戻ったから起こる現象。

感情の揺れも、
それと似たところがあるのかもしれません。

これまで抑え込まれていた感覚。
感じないようにしてきた違和感。
忙しさや役割の中で、
後回しにされてきた内側の声。

それらが、
エネルギーの流れが変わることで、
表に出てくることがある。

レイキでは、
そうした状態を
「調整反応」と呼ぶことがあります。

調整反応という言葉は、
何かを良くしようとする力が
内側で働いている途中段階、
というニュアンスを含んでいます。

けれど、
その現れ方は、
必ずしも心地よいものではありません。

むしろ、
不安定さや違和感、
落ち着かなさとして
感じられることのほうが多い。

だから、
「調整されている」と言われても、
体感としては
そうは思えないこともあります。

それでも、
その揺れは、
壊れているサインとは限らない。

軸がなくなった証拠でも、
積み重ねが無駄になった印でもない。

もしかするとそれは、
ずれてしまった自分を
無理に正そうとしているのではなく、
本来の位置へ
戻ろうとする動きの途中なのかもしれません。

外側に向き続けていた意識が、
少しずつ内側へ引き戻されるとき。
役割や期待に合わせていた感覚が、
ふっと緩み始めるとき。

その変化は、
とても静かで、
言葉にならない形で起こることが多いようです。

そして感情は、
その変化を
いちばんわかりやすい形で
知らせてくれる存在なのかもしれません。

騒がしく主張するためではなく、
「今、何かが動いているよ」
と伝えるために。

感情が出てくること自体が、
異常なのではなく、
変化が起きている合図として
現れているだけ。

そう捉えてみると、
揺れている自分を
急いで元に戻そうとしなくてもいい、
そんな余白が、
少しだけ生まれることもあるようです。

その感情は、何かを伝えようとしているのではなく映している

感情が揺れているとき、
私たちは自然と、その理由を探し始めます。
何が引き金だったのか。
どこでバランスを崩したのか。

「何がいけなかったのだろう」
「どこで間違えたのだろう」

そんな問いが、
意識しないうちに、
頭の中を何度も巡ることがあります。

理由がわかれば安心できる。
原因を特定できれば、
次は同じことを繰り返さずに済む。

そう思うからこそ、
感情に説明を与えようとするのかもしれません。

けれど、
感情は必ずしも
「原因と結果」の線で
きれいに結ばれるものではないようです。

もっと曖昧で、
もっと輪郭がぼやけていて、
言葉になる前の層から、
ふっと立ち上がってくることもあります。

頭よりも先に、
身体が反応しているような感覚。

たとえば、
特別な出来事があったわけではないのに、
胸の奥がざわつく。

理由は説明できないけれど、
呼吸が浅くなっていることに、
あとから気づく。

肩や背中に、
いつもより力が入っている。

そんな小さな変化が、
同時に起きていることもあります。

そのとき起きているのは、
必ずしも
「問題」や「トラブル」ではなく、
感覚の位置が
少しだけ変わっている、
という現象なのかもしれません。

外側に向いていた意識が、
内側へ戻ろうとするとき。

役割を果たすために使っていたエネルギーが、
自分の感覚へ
引き戻され始めるとき。

それまで見ないようにしてきた疲れや、
気づかないふりをしてきた違和感が、
ようやく表に出てくることがあります。

それは、
大きな衝撃としてではなく、
とても控えめな形で。

押し出すような強さではなく、
「もうそろそろ気づいてもいいよ」
と、
内側からそっと声をかけられるような、
小さな揺れとして。

イライラの奥に、
実は休みたかった感覚が
静かに横たわっていることもあります。

不安の底に、
誰かに委ねたかった気持ちが、
言葉にならないまま
残っていることもあります。

悲しさの背後に、
大切に扱われたかった自分が、
何も言わずに
座っていることもあります。

それらは、
「主張」ではなく、
「存在」として
そこにあるだけ。

感情は、
それ自体が
答えを持っているわけではありません。

正解を示すためでも、
行動を指示するためでもなく、
ただ、
「今の状態」を
映しているだけ、
という見方もできそうです。

調整反応として現れる感情は、
前へ進めと
背中を押すものではありません。

何かを決断させるためでも、
変化を促すためでもなく、
むしろ、
立ち止まる許可を出すような形で
現れることが多いようです。

今は、
急がなくていい。
整理しなくてもいい。

何かを変えなくてもいいし、
すぐに整えなくてもいい。

ただ、
「今、こんな感覚がある」
という事実に、
気づかれるのを
待っているだけ。

感情が揺れる日は、
自分の軸が
失われた証拠ではなく、
軸に戻る途中の、
一時的な通過点なのかもしれません。

それは、
元の状態に
戻るというより、
本来の位置を
思い出すような感覚。

言葉にならなくても、
はっきり理解できなくても、
内側では、
何かが静かに調整されている。

そんな時間帯も、
確かに存在しているようです。


今日は、揺れているままでいてもいい

もし今日は、
感情が落ち着かない一日だったとしても。
それを、
「早く終わらせるべき状態」
として扱わなくてもいいのかもしれません。

今すぐ理解しなくても、
意味づけをしなくても。
整えようとしなくても。

ただ、
呼吸がここにあることだけを、
感じてみる。

感情は、
去らせなくても、
抱え込まなくても、
そのままでも、
静かに通り過ぎていくことがあります。

今はまだ、
揺れていても。
それはきっと、
戻る途中の、
一瞬の波。

今日はそれで、
十分なのかもしれません。

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