なぜか、世界から切り離されたように感じる日
特別な出来事があったわけではないのに、
なぜか心が遠くにある。
人と話していても、
言葉がほんの少し噛み合わない。
笑っているはずなのに、
どこか一歩引いた場所に
自分がいるような感覚。
周囲の音が、
ガラス越しに聞こえるように
ぼんやりと届く。
「自分だけ、ここにいない気がする」
そんな日が、
ふと訪れることがあります。
それは、
誰にでも起こることなのに、
なかなか言葉にされません。
理由がはっきりしないぶん、
不安になったり、
「おかしいのかな」と
自分を疑ってしまうこともあります。
生かされている感覚は、常に続くわけではない
スピリチュアルな言葉の中では、
「つながっている」
「守られている」
といった表現がよく使われます。
それらは、
確かに大切な視点です。
けれど実際の感覚は、
いつも一定ではありません。
つながりを強く感じる日もあれば、
まったく感じられない日もある。
生かされている感覚は、
常に“感じられる状態”である必要はない
のです。
感じられないからといって、
流れが途切れたわけでも、
守りが消えたわけでもありません。
ただ、
感覚が一時的に
内側へ引っ込んでいるだけ
ということもあります。
孤独感は、異常ではない
生かされている感覚が薄れると、
人は自然と孤独を感じます。
誰にもわかってもらえないような、
ひとりきりの感覚。
世界と自分の間に、
見えない距離が
生まれたような感じ。
でも、
孤独感そのものが
悪いものというわけではありません。
レイキの視点では、
孤独感は
エネルギーが内側に集まるサイン
として現れることがあります。
外とのつながりを
感じにくくなる代わりに、
自分の中心へ戻る準備が
始まっている状態。
それは、
切り離されたのではなく、
一度“静かな場所”へ
戻っている途中なのかもしれません。
つながりが消えたように見える理由
生かされている感覚は、
強く意識したときほど、
かえって見えにくくなることがあります。
「感じなければ」
「信じなければ」
「ちゃんとつながっていなければ」
そう思えば思うほど、
心は緊張し、
感覚は遠ざかっていく。
それは、
眠ろうとすればするほど
眠れなくなるのと
よく似ています。
感じようとする力が、
かえって感覚を閉じてしまう。
生かされている流れは、
思い出そうとしなくても、
意識しなくても、
ちゃんと続いているものなのです。
世界が遠く感じる日の、静かな役割
世界が遠く感じる日は、
外へ向いていた意識が
一度、内側へ戻る
タイミングでもあります。
情報。
人。
音。
期待。
そうしたものから、
ほんの少し距離を取る時間。
それは、
逃げでも、
後退でもありません。
むしろ、
自分の感覚を守るための
自然な動きです。
生かされている感覚が
消えたように見える日は、
静かに深呼吸をするための
余白が生まれているのかもしれません。
「感じられない自分」を責めなくていい
つながりを感じられない自分を、
責める必要はありません。
感じられないからといって、
鈍くなったわけでも、
何かを間違えたわけでもない。
今はただ、
感覚が内向きになっているだけ。
そういう時期も、
人生の流れの一部です。
無理に戻そうとしなくていい。
無理につながろうとしなくていい。
静かな場所にいる時間もまた、
ちゃんと
生かされている時間なのです。
感覚が戻る瞬間は、意外と静か
生かされている感覚が戻る瞬間は、
意外なほど、静かです。
何かがはっきりと変わった、
という実感があるわけでもない。
劇的な気づきが訪れるわけでも、
涙があふれて止まらなくなるわけでもありません。
ただ、
「さっきより、少し楽かもしれない」
そんな小さな感覚が、
ふっと現れるだけ。
呼吸が、
ほんの少し深くなる。
肩の力が、
わずかに抜ける。
それだけのことです。
でも、その
「それだけ」に見える変化こそが、
流れがちゃんと続いている
確かな証でもあります。
大きな変化は、
たいていあとから振り返って
気づくものです。
戻った瞬間には、
「戻った」とすら
気づかないことも多いのです。
無理につながろうとしない
生かされている感覚を
取り戻そうとするとき、
人はつい、
「感じよう」とします。
ちゃんと感じられているか。
ちゃんとつながっているか。
今の自分は、
外れていないだろうか。
でも、
つながりは
“掴むもの”ではありません。
掴もうとした瞬間、
その感覚は、
指の隙間から
こぼれ落ちてしまいます。
本当に必要なのは、
つながろうとすることではなく、
離れようとしないこと
なのかもしれません。
今、感じられなくてもいい。
確信が持てなくてもいい。
ただ、
そこにい続ける。
逃げずに、
否定せずに、
今の場所に立ち続ける。
それだけで、
流れは、
自然に戻ってきます。
孤独と一緒に座るということ
孤独感が出ているとき、
それを消そうとしなくていい。
誰かと無理に会わなくてもいい。
明るい言葉を
無理に探さなくてもいい。
元気なふりを
しなくてもいい。
ただ、
その孤独と同じ場所に
座ってみる。
「今、ひとりだな」
「少し寂しいな」
そう、
そのまま認めるだけでいい。
それだけで、
心の中で張りつめていたものが、
少しずつ緩んでいきます。
孤独は、
あなたを切り離すために
現れるのではありません。
誰からも、
世界からも、
切り離された存在だと
知らせるために
来るのではない。
孤独は、
自分自身と再会するために
訪れることもあります。
生かされている感覚は、信じるものではない
生かされている感覚は、
信じ続けなければならない
概念ではありません。
疑ってもいいし、
忘れてもいい。
信じられない日があっても、
何の問題もありません。
それでも、
流れは止まりません。
川が流れるのに、
私たちの信頼を
必要としないように。
感じられない日があっても、
疑う日があっても、
世界はちゃんと、
あなたを運んでいます。
信じていないから
外れるわけではない。
感じられないから
見捨てられるわけでもない。
流れは、
あなたの確信とは
別のところで、
静かに続いています。
切れていないものを、切れたことにしない
生かされている感覚が
感じられなくなると、
人はつい
「切れた」と思ってしまいます。
でも、
切れたかどうかを
判断しているのは、
多くの場合、思考です。
感覚が遠のいても、
流れそのものは
切れていません。
見えなくなっただけ。
感じにくくなっただけ。
それを、
切れたことにしない。
「もうだめだ」と
決めつけない。
ただそれだけで、
安心は、
ほんの少し戻ってきます。
最後に
もし今、
生かされている感覚が
感じられなくても。
孤独を感じていても。
世界が、
少し遠く見えていても。
あなたは、
流れの中にいます。
切れていない。
外れていない。
置いていかれていない。
ただ、
静かな場所に
一度戻っているだけ。
また必要なときに、
感覚は、
ふっと戻ってきます。
それまで、
無理に探さなくていい。
ここにいるだけで、
もう十分です。

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