「ちゃんとしよう」と思った瞬間に、重くなる心
年のはじめや、
何かの区切りのあとに、
「そろそろ整えよう」
「立て直そう」
と思うことがあります。
生活を整えたい。
気持ちを整えたい。
エネルギーを整えたい。
その言葉自体は、とても優しく、
前向きなものに聞こえます。
怠けているわけでもなく、
むしろ、
「よくありたい」と願う
誠実さから生まれる言葉です。
それなのに、
「整えよう」と思った途端、
なぜか心が重くなる。
やる気が出ない。
何から手をつけたらいいかわからない。
整えるはずなのに、
気づけば、
どっと疲れてしまう。
この感覚は、
意志が弱いからでも、
怠けているからでもありません。
むしろ、
とても自然な反応です。
整える=正しい状態に戻す、ではない
私たちは無意識のうちに、
「整える」という言葉を
“正しい状態に戻すこと”
のように使っています。
・こうあるべき
・このくらいはできていないと
・前はもっとできていた
そんな基準が、
整えるという言葉の奥に、
ひっそりと隠れています。
だから「整えよう」とした瞬間、
心は一瞬で緊張します。
今の自分は、
どこか間違っている。
どこか足りていない。
そう評価された状態で、
人は自然には回復できません。
評価されている心は、
守ろうとします。
比べられている心は、
固まります。
「整えよう」とするたびに
苦しくなるのは、
整える行為そのものではなく、
その裏にある“自己評価”
が原因であることが多いのです。
レイキの視点では「乱れ」は悪ではない
レイキの世界では、
エネルギーの揺れやズレを
「異常」とは捉えません。
むしろ、
揺れはとても自然なものです。
人は、
感情が動いた分だけ揺れ、
経験を重ねた分だけズレます。
うれしかった分、
心は広がる。
傷ついた分、
感覚は少し歪む。
それは、
生きてきた証でもあります。
もし、
揺れない状態、
ズレない状態が
ずっと続くとしたら。
それは、
何も感じていない状態、
つまり「生きていない」のと
同じかもしれません。
それなのに、
揺れやズレを感じるたびに、
「整えなければ」と思ってしまう。
それは、
呼吸が少し乱れるたびに
「ちゃんと吸わなきゃ」と
意識しすぎるのと、
とてもよく似ています。
整えようとする力が、回復を遠ざける
本来、回復は
とても静かに起こります。
力を入れた瞬間ではなく、
力が抜けたときに。
深呼吸をしようとして
うまくできないとき、
人は無意識に
呼吸をコントロールしすぎています。
「ちゃんと吸おう」
「深くしよう」
そう思えば思うほど、
呼吸は浅くなり、
苦しくなる。
心やエネルギーも、
まったく同じです。
整えようと意識しすぎると、
本来ゆるむはずのものが、
かえって固まってしまう。
「整えなきゃ」という言葉の裏側には、
今の自分を
どこか信じられていない感覚が
潜んでいることがあります。
本当に必要なのは「戻す」ことではない
レイキの視点から見ると、
本当に必要なのは
“元に戻すこと”ではありません。
人は、
同じ場所には二度と戻れません。
去年の自分にも、
昨日の自分にも。
それでも私たちは、
無意識に
「あの頃の状態」を
正解にしてしまいます。
でも、
そこへ戻ろうとすればするほど、
今の自分は
否定されてしまう。
整える前に必要なのは、
正すことでも、
修正することでもありません。
今の自分が、
どんな位置にいるのかを
静かに知ること。
整える前に、
まず「今ここ」を
見つめることです。
整っていなくても、流れは続いている
整っていないと感じる時期でも、
人生の流れは止まっていません。
むしろ、
整っていないように感じる時期ほど、
内側では何かが
組み替えられていることが多い。
見えないところで、
価値観や優先順位が
少しずつ変わっていく。
その途中段階は、
どうしても落ち着かず、
「整っていない」
と感じやすくなります。
でもそれは、
壊れているのではなく、
移行している状態
なのかもしれません。
整えないという選択
「整えようとしない」という言葉は、
放置することや、
諦めることと
混同されがちです。
何もしないこと。
投げ出すこと。
もう良くならないと
決めてしまうこと。
そう受け取られてしまうことも
少なくありません。
けれど、
ここで言う“整えない”は、
何もしないという意味ではありません。
それは、
自分を正そうとしない
という、
とても静かな選択です。
正さない、という優しさ
整えようとするとき、
私たちは無意識に
自分を評価しています。
今の状態はどうか。
足りているか。
間違っていないか。
けれど、
評価された心は
自然には緩みません。
だから「整えない」という選択は、
評価をいったん脇に置くことでもあります。
今の状態を、
良いとも悪いとも言わない。
直そうともしない。
次の方向を決めようともしない。
ただ、
「こういう状態なんだな」と
静かに確認する。
それだけで、
心の中に入っていた
余計な力が、
少しずつほどけていきます。
戻っていく力は、もともと備わっている
レイキの考え方では、
人の中にはもともと
自然に戻ろうとする力が
備わっているとされています。
傷ついたからこそ、
回復しようとする力が生まれ、
疲れたからこそ、
休もうとする感覚が生まれる。
それは、
努力して身につけたものではなく、
生きていることそのものに
組み込まれている力です。
もしその力がなければ、
人はとっくに
立ち上がれなくなっているはずです。
「整えなければならない」
そう強く思っているときほど、
実はもう、
回復のプロセスは
静かに始まっています。
何もしない時間が、整いを呼ぶ
「今日は何もできなかった」
そう感じる日も、
きっとあるでしょう。
でも、
何もできなかったのではなく、
何もしない時間が必要だった
だけかもしれません。
余白がなければ、
次の流れは入ってきません。
エネルギーも、
感情も、
思考も。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた場所には、
新しいものが
入り込む隙間がないのです。
何もしていないように見える時間は、
整いの“前段階”として、
とても重要な役割を果たしています。
セルフヒーリングは「うまくやらなくていい」
セルフヒーリングもまた、
整えようとすると
苦しくなりやすい分野です。
正しいやり方。
ちゃんとした手順。
効果を感じること。
そうした基準が増えるほど、
ヒーリングは
「できているかどうか」を
測る時間になってしまいます。
けれど、
本来のヒーリングは、
測るものではありません。
手を当ててもいいし、
当てなくてもいい。
何も感じなくてもいい。
途中でやめてもいい。
それでも、
「今の自分と一緒にいる」
という感覚だけは、
確かにそこにあります。
整っていない自分を、連れていく
レイキ的な歩き方は、
整ってから進むことではありません。
整っていない自分を連れて進む
という歩き方です。
揺れている自分も、
疲れている自分も、
まだ決められない自分も。
そのままの状態で、
今日という一日を
生きていく。
すると、
ある日ふと、
「少し楽になっている」
瞬間に気づくことがあります。
それは、
整えた結果ではなく、
一緒に過ごした結果です。
最後に
もし今、
「整えなきゃ」という言葉に
疲れてしまっているなら。
今日は、
整えなくていい日かもしれません。
直さなくていい。
戻さなくていい。
正さなくていい。
ただ、
今の自分と
同じ場所に座ってみる。
それだけで、
エネルギーは
ちゃんと、
自分の場所へ
戻っていきます。

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