手を当てる、その少し前に
手を当てようとした、その直前。
ほんの一瞬、ためらうような間が生まれることがあります。
「これで合っているだろうか」
「ちゃんとできているだろうか」
「何か、足りない気がする」
セルフヒーリングに触れたことのある人ほど、
そんな感覚を覚えたことがあるかもしれません。
本当は休みたくて、
ただ静かになりたくて、
自分に触れようとしているだけなのに、
いつの間にか、
“うまくやる”ことが視界に入り込んでくる。
手を当てる前から、
少しだけ呼吸が浅くなっていることに、
あとから気づく人もいるようです。
それは、
あなたの集中力が足りないからでも、
感覚が鈍いからでもないのかもしれません。
むしろ、
とても真剣に向き合おうとしてきたからこそ、
自然に生まれた反応、
そんなふうに感じられる場面もあります。
セルフヒーリングを続けていると、
「整えたい」「回復させたい」という思いが、
いつの間にか前に出てくることがあります。
それ自体が悪いわけではなく、
ただ、
その思いが少し強くなりすぎると、
今ここにいる自分の感覚が、
置き去りになることもあるようです。
手を当てる行為が、
癒しに向かう入り口であるはずなのに、
気づけば、
“うまくできているかどうか”を確認する時間に
すり替わってしまう。
そんなズレが起きることは、
決して珍しいことではありません。
だからもし、
手を当てる前に立ち止まる瞬間があったとしても、
それを「邪魔な迷い」として
押しのけなくてもいいのかもしれません。
その立ち止まり自体が、
何かを知らせようとしている場合もあります。
セルフヒーリングが「方法」になってしまうとき
セルフヒーリングという言葉は、
とても扱いやすく、
多くの人にとって入口になりやすい響きを持っています。
一方で、
その便利さゆえに、
いつの間にか少し違う受け取られ方をすることもあるようです。
気づけばそれは、
「こうすれば整う」
「こうすれば癒される」
という、“方法”として理解されていく。
手を当てる場所。
意識を向ける方向。
呼吸の深さや、
姿勢、
過ごす時間の長さ。
それら一つひとつは、
決して間違いではなく、
誰かが何かを感じるきっかけになってきたものでもあります。
ただ、
それらが前に出すぎたとき、
ヒーリングは、
少しだけ性質を変えることがあります。
本来は、
力が抜けていくはずの時間に、
別の緊張が混じり始める。
「これで合っているだろうか」
「ちゃんとできているだろうか」
そんな確認が、
声にならないまま、
内側で繰り返される。
表面では静かに見えていても、
内側では、
小さな評価が動き続けている。
すると、
身体は休もうとしているのに、
意識はどこかで踏ん張っている。
その状態が続くと、
ヒーリングの時間そのものが、
“正しく行えているかを確かめる時間”のように
感じられてくることもあります。
けれど、
セルフヒーリングの場面で起きていることは、
必ずしも
何かを新しく起こすことではないのかもしれません。
何かを足したり、
動かしたり、
変化を生み出したりする前に、
すでに存在している状態と
一緒にいる。
そんな感覚に近い、と感じる人もいます。
何かを変えようとする前に、
何かを整えようとする前に、
ただ、
今の自分と同じ空間に座っている。
向かい合うわけでもなく、
評価するわけでもなく、
ただ、同じ部屋にいる。
無理に言葉を交わさなくても、
沈黙を埋めようとしなくても、
そこから立ち去らなくてもいい。
そんな距離感です。
もし、
セルフヒーリングを
「方法」として扱いすぎると、
その距離が、
ほんの少し遠くなることがあります。
“今の自分”が、
いつの間にか
調整すべき対象のようになってしまう。
癒す側と、
癒される側が、
分かれて立ってしまう。
その分かれ目はとても繊細で、
本人もはっきりとは気づかないまま、
自然に生まれていることが多いようです。
でも、
後になって振り返ったとき、
「分けなくてもよかったのかもしれない」
そんな感覚が浮かぶこともあります。
今感じている重さも、
理由のわからない違和感も、
うまくいっていないように思える感じも、
すべて含めたまま、
同じ部屋にいる。
何かをどうにかしなくても、
それだけで、
空気が少し変わることがあります。
分けなくてもよかった、という感覚は、
その瞬間よりも、
少し時間が経ってから
じんわりと立ち上がってくることが多いようです。
何かが劇的に変わったわけではない。
気分が一気に晴れたわけでもない。
それでも、
さっきより、
ほんの少し呼吸が楽になっている。
手を当てた「結果」ではなく、
手を当てようとする前にあった緊張が、
いつの間にか、
ほどけている。
そんな変化に、
あとから気づく人もいます。
それは、
うまくやれたから起きた出来事というより、
「今の自分と同じ場所にいた」時間が、
無理なく続いていたから、
自然に起きていたことなのかもしれません。
うまくいかないと感じる時間に、起きていること
セルフヒーリングが、
うまくいっていないように感じるとき。
何も感じられなかった。
変化がわからなかった。
終わったあとも、
前と同じ自分のままに思えた。
そんなふうに振り返る瞬間が、
訪れることがあります。
けれど、
そのとき本当に、
何も起きていなかったのかというと、
必ずしもそうとは限らないようです。
ただ、
自分の感覚が立ち上がるよりも先に、
別の視線が動き始めていただけ、
という場合もあります。
「変化があったかどうか」
「整った感じがするか」
「意味のある時間だったか」
そうした問いは、
一見すると冷静で、
状況を把握しようとする
自然な確認のようにも見えます。
けれど、
それらの問いが前に出てくると、
意識は少しずつ、
今この瞬間から離れていきます。
何かを“感じる側”から、
何かを“判定する側”へと、
静かに位置を変えていく。
その移動はとても小さく、
本人がはっきり気づかないまま
起きていることも多いようです。
そのときの身体は、
大きく力が入っているわけではありません。
ただ、
ほんのわずかに緊張が残っていて、
呼吸も、
深く吸えているようで、
実は途中で止まっている。
吸ったまま、
次の息に移りきれないような、
そんな状態になっていることがあります。
何かをしようとしている自分と、
今ここにいる自分のあいだに、
ほんの少し、距離ができる。
その距離は、
間違いでも、
失敗でもなく、
ただ、
「そうなっていた」という
事実に近いものです。
もし、
手を当てている最中に、
「ちゃんと感じられているだろうか」
という思いが浮かんできたとしたら。
それを、
集中できていない証拠のように
扱わなくてもいいのかもしれません。
その思い自体もまた、
今の自分の状態の一部として
現れてきたもの、と
感じる人もいます。
追い払わなくても、
正しい方向に戻そうとしなくても、
ただ、
「あ、今こう感じているんだな」
と気づくだけで、
意識の位置が
少し戻ることもあります。
「感じられていない自分」
「よくわからないままの自分」
「何も起きていない気がする自分」
それらを含めた状態で、
同じ部屋にいる。
どれかを外に出さず、
どれかを置いていかず、
ただ、
今の状態が、
ここにある、
という感覚に触れている時間。
焦って何かを起こそうとせず、
遅れているように感じる自分を
急かすこともなく、
そのまま一緒にいる。
それは、
癒そうとする行為というより、
確認に近いものかもしれません。
今、
誰かに急かされていないか。
今、
自分自身を、
外に立たせていないか。
その確認は、
頭で考えなくても、
言葉にしなくても、
身体のどこかで
静かに行われていることがあります。
気づいたときには、
呼吸が少し動いている。
それだけの変化が、
すでに起きている場合もあるようです。
今日は、同じ場所にいるだけで
手を当てる前に、
何かを整えなくても、
何かを正しくしなくても、
今の自分は、
すでにここにいます。
うまくやろうとしない時間も、
何も変わらないと感じる時間も、
同じ空間に流れている。
今日は、
ただ同じ部屋にいるだけで、
それで十分な日かもしれません。
静かに呼吸が戻るところまで、
急がずに、
そのままで。

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