春になると、人の動きが気になり始める
春になると、
なぜか人の動きが目に入りやすくなる。
そんな感覚を覚える人もいるようです。
新しい環境。
新しい肩書き。
新しい挑戦。
誰かの変化が、
次々と視界に入ってくる。
それを見たとき、
祝福する気持ちと同時に、
自分の内側が、
少しだけざわつくことがあります。
「自分は何も変わっていない気がする」
「このままでいいのだろうか」
そんな問いが、
いつの間にか浮かび上がってくる。
比べようとしているわけではないのに、
気づけば、
人と自分を並べて見ている。
そして、
どこか足りないような気持ちが残る。
春は、
外の動きが活発になる分、
自分の立ち位置が、
はっきり見えてしまう季節なのかもしれません。
見えているのは、ほんの一部分かもしれない
人と比べてしまうこと自体は、
珍しいことではありません。
特に、
変化が目に見えやすい時期には、
自然と起きやすい反応のようにも思えます。
春は、
「始まり」や「前進」が
強調されやすい季節です。
その空気の中にいると、
動いていない自分が、
取り残されているように
感じられることもあります。
けれど、
他人の動きが目に入るとき、
私たちは、
その人の一部分だけを見ています。
結果や表面の変化だけが、
切り取られて見える。
そこに至るまでの迷い。
立ち止まっていた時間。
不安や調整の過程。
そうしたものは、
ほとんど見えません。
比べているつもりがなくても、
見えている情報の偏りが、
知らず知らずのうちに、
自分の感覚を揺らしていることもあります。
比べてしまうとき、
本当は、
相手そのものを見ているわけではないこともあります。
「進んでいるように見える姿」
「うまくいっているように見える変化」
そうした断片に、
自分の現在地を重ね合わせている。
そんな状態になっていることもあります。
そのとき、
心の中では、
自分の感覚が少し置き去りになります。
今、何を感じているのか。
どこに疲れが残っているのか。
何に無理が生じているのか。
それらよりも先に、
「遅れているかもしれない」
「足りていないかもしれない」
という評価が立ち上がってくる。
比べる視線が、内側の感覚を遠ざけるとき
人と比べてしまうとき、
心は、
外の基準に引き寄せられています。
誰が先に進んでいるか。
何を始めているか。
どんな成果が見えているか。
そうした基準は、
分かりやすく、
目に入りやすい。
けれど、
その基準に合わせようとするほど、
自分の内側の感覚は、
だんだんと小さくなっていくことがあります。
本当は、
今日は少し疲れている。
今は、静かにしていたい。
まだ、動き出す感じではない。
そうした感覚があっても、
比べる視線が強いと、
それらを後回しにしてしまう。
人と比べやすくなる春は、
外に意識が向きやすい分、
内側の声が聞こえにくくなる季節
とも言えそうです。
だからこそ、
比べていること自体を
否定する必要はありませんが、
そのまま流されてしまうと、
自分の感覚が置いていかれることもあります。
比べてしまったことに気づいたとき、
「また比べている」と責めるより、
今、
自分の感覚はどこにあるのか、
そっと戻ってみる。
外の動きから、
いったん目を離し、
呼吸や身体の重さを感じる。
それだけで、
評価の視線が、
少し緩むこともあります。
人と比べやすくなるとき、
私たちは、
「どこに向かっているか」よりも、
「どれくらい進んでいるか」を
気にしやすくなります。
速さ。
分かりやすい変化。
目に見える結果。
そうしたものが、
基準になりやすい。
けれど、
本来の感覚は、
もっと静かなところにあります。
今の自分には、
どんな余裕があるのか。
どこまでなら、
無理なく呼吸ができるのか。
何をするとき、
身体が少し緩むのか。
そうした感覚は、
人と比べている最中には、
見えにくくなってしまいます。
春は、
外の世界が一斉に動き出す分、
自分の内側との距離が
広がりやすい季節でもあります。
だから、
比べてしまう自分を
直そうとしなくてもいい。
ただ、
いちばん大切な感覚が、
外に持っていかれていないかを
そっと確かめる。
人と比べる視線が強まるほど、
守りたいのは、
「自分が今、どう感じているか」
という、ごく静かな感覚なのかもしれません。
いちばん守りたい、静かな感覚
人と比べやすくなる春に、
何かを証明しなくてもいいのだと思います。
今すぐ追いつかなくても、
目立つ変化がなくても、
自分の感覚は、
ちゃんとここにある。
静かに、
その感覚を手放さずに
いられればいい。

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