何もしていないのに、疲れていると感じる日

目次

気づけば、理由のわからない重さが残っているとき

気がつくと、
特別なことをしていない一日だったはずなのに、
なぜか、身体の奥に重さが残っていることがあります。

外に出たわけでもない。
人とたくさん話したわけでもない。

それでも、
夕方になる頃には、
どこか「もう十分だ」と感じているような感覚。

やるべきことが終わっていないことに、
少しだけ焦りが浮かんだり、
「何もしていないのに疲れるなんて」と、
自分に小さく疑問を向けてしまうこともあるかもしれません。

けれど、
その疲れには、
目に見えない理由が含まれていることもあるようです。

「何もしていない時間」にも、流れているもの

疲れというと、
身体を動かしたあとに感じるもの、
というイメージが強いかもしれません。

けれど、
動いていない時間の中にも、
確かに消耗は存在しているようです。

たとえば、
何かを考え続けている時間。
はっきりと言葉にならないまま、
頭の奥で同じ場所を行き来している思考。

あるいは、
外からの刺激を受け取っているだけの時間。
音や光、人の気配、
そのすべてを、無意識のうちに受け止めている感覚。

そうしたものは、
「何かをした」という実感には残りにくいのに、
静かに、内側のエネルギーを使っていることがあります。

何もしていないように見える一日の中で、
実際には、
見えないところで多くのやり取りが行われている。

そんな見方も、
どこかにあるのかもしれません。

言葉にならないまま残っている感覚について

「疲れている」と感じるとき、
私たちはつい、
その理由を外側に探そうとすることがあります。

何かやりすぎたのではないか。
どこかに無駄があったのではないか。

そうやって、
原因を見つけようとする意識が動き始める。

けれど、
その問いの奥で、
もうひとつ別の感覚が静かに存在していることもあります。

それは、
言葉にならないまま残っているもの。

たとえば、
気づかないうちに受け取っていた空気の重さや、
ほんの一瞬感じた違和感。

そのときは通り過ぎたつもりでも、
身体の奥では、
まだ処理しきれていないまま残っていることがあります。

思考としては終わっていても、
感覚としては、
まだ続いている。

その小さなズレが、
「理由のわからない疲れ」として
浮かび上がってくることもあるようです。

そして、
その疲れをどうにかしようとするとき、
さらにもうひとつの力が加わることがあります。

「ちゃんとしなければ」
「整えなければ」

そうした意識が、
知らないうちに、
もう一度自分に力を入れさせてしまう。

本当は、
すでに何かを受け取り、
何かを通り抜けてきたあとかもしれないのに、

そのことに気づかないまま、
さらに整えようとしてしまう。

そのとき、
身体は少しだけ緊張し、
呼吸も、
深くなりきらないまま留まることがあります。

疲れは、
何かが足りないサインではなく、

すでに何かが動いたあとに、
残っている余韻のようなもの。

そう感じられる瞬間が、
どこかにあるのかもしれません。

整えなくても、ほどけていく流れの中で

一日を振り返ったとき、
「何もしていない」と感じる日にも、
見えないところで、
いくつもの流れが通り過ぎているのかもしれません。

それは、
はっきりとした成果にはならないけれど、
確かに内側を通っていったもの。

言葉にならなかった感覚や、
そのまま置いてきた気配も、
どこかで静かに残り続けています。

だから、
理由をはっきりさせなくてもいい時間があっても、
不自然ではないのかもしれません。

ただ、
そのままの重さを抱えたままでも、
一日は、ゆっくりと終わりに向かっていきます。

呼吸が少しずつ深くなっていくように、
何も整えなくても、
自然にほどけていくものもあるようです。

Follow me!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次